創設者

 米国カンバーランド長老教会の宣教師として来日し、約50年にわたって開拓伝道に一生を捧げ、大阪、奈良をはじめ、紀伊半島全域に活動を拡げ、各地に教会を創設した。

  兄A.D.ヘール(Rev.Alexander Durham Hail 1844-1923)、 弟J.B.ヘール(Rev.John Baxter Hail 1846-1928)とも米国イリノイ州に生まれ、1858年に地元のカンバーランド長老教会で洗礼を受けた。
 A.D.ヘールは 1861年に南北戦争に従軍、その前後にいくつかの大学で学び、ペンシルヴァニア州ウェインズバーグ大学を卒業。その後、オハイオ州オべリン神学校に学 び、さらにクリーブランド医科大学で医学を修めた。J.B.ヘールはウェインズバーグ大学を卒業後、ピッツバーグのウエスタン神学校で神学を修めた。
 ともに外国伝道を志し、日本に派遣されることになり、まずJ.B.ヘール夫妻が1877(明治10)年に来日。カンバーランド長老教会の日本における伝道活動が始まった。A.D.ヘールは翌1878(明治11)年に妻と幼い息子(J.E.ヘール)を伴い来日した。

 日本伝道を始めた頃、J.B.ヘールは次のように記している(『Twenty-Five Years in Japan』〈日本語版は『日本伝道二十五年』〉)。
 「日本政府は熱心に教育事業に取り組み、官立学校がいたるところに建てられた。しかしそれらは、非宗教的で、すべてが反キリスト教的であった。すべての官立師範学校では、教師になろうとする人たちが、宗教は真の知識の敵であると教えられた」。
 「独立した単位としての人格という概念は、日本人が今日まで教えられてきたあらゆる哲学にないものである」。
 「人間を一つの単位と考える観念、自分の行動については自分に責任があるのだという観念は、日本人に理解し難いものだった」。
 兄弟は伝道を始めてまもなく、キリスト教学校を設立することが必要だと考えた。カンバーランド長老教会外国宣教局(ミッションボード)において、A.D.ヘールが教育事業の監督に任命され、J.B.ヘールは、女性宣教師A.オルとともに学校の具体案の作成を担った。
 こうして1884(明治17)年1月7日、ウヰルミナ女学校が川口外国人居留地に開校した。

  夫人たちも伝道のさまざまな活動にかかわって働き、ともに日本で生涯を終えた。A.D.ヘール夫妻は豊中市の服部霊園外国人墓地(最初に墓のあった大阪市 阿倍野区の外国人墓地が服部霊園に移された)に、J.B.ヘール夫妻は和歌山市内の墓地にそれぞれ眠る。また、A.D.ヘールの息子J.E.ヘールも宣教 師となって主に三重県津市で活動し、妻とともに同市に葬られている。A.D.ヘールの娘アニー・ヘールは、ウヰルミナ女学校で教職に就いた。
 大阪女学院のヘールチャペルは、この一家を記念して名付けられたものである。
 

 左:J.B.ヘール
 右:A.D.ヘール