戦後の復興物語

 1945(昭和20)年6月、アメリカ軍B29爆撃機による大阪大空襲によって学校は全焼し、校舎のほとんどを焼失した。死傷者はなかったが、当時「新館」と呼ばれた鉄筋コンクリート4階建校舎の外郭だけを残すのみであった。

  移転も考えられたが、資金がなく、校舎再建のめども立たない状態では新入生募集など思いもよらなかった。ところが、翌年1月中頃から毎日のように入学志願者の父母が入学案内書をもらいに来るようになった。志願者はついに80名に達した。


 学院関係者は、これら父母の期待に応えようと、心を一つにして現在地での復興を決意した。銀行をまわり融資依頼に奔走したが、確かな担保も保証人もないということですべて断られた。唯一、当時の住友銀行今里支店のみが、大阪女学院入学を熱望する保護者と、それに応えようとする職員を信用して融資を引き受けた。これで資金の目途が立った。数年後、アメリカの教会から送られた多額の復興資金は、この時の感謝を込めてすべてこの銀行に預け入れられたという。

 瓦礫の山となった校地や焼け残った校舎の整備、片付けなどの復興作業には、生徒、教職員、保護者が一丸となって文字通り手作業で取り組んだ。翌年にはバラック建ての仮校舎が建てられた。

 1946(昭和21)年の秋、米国長老派教会の元宣教師が大阪女学院を訪れ、仮校舎や焼けた鉄筋校舎の床を補修して授業をしている様子をつぶさに視察した。その後1949(昭和24)年に同教会から復興資金20万ドル送金の内示がきた。当時1ドルは360円、葉書一枚2円の時代で、単純に換算すると今の約20億円にも相当した。

  本格的な校舎建設の資金が得られたが、学院関係者は、一面の焼け野原と化した学校周辺を見て、校地拡張の機会と捉え、土地を買い増し、元の約4倍の11,000坪に拡張した。1951(昭和26)年、広くなった校地の中央に1,000人収容のチャペル兼講堂、北側に鉄筋4階(地下1階)建て校舎が建設された。その後、1964(昭和39)年までの10年の間に、25メートル7コースの公認プール、運動場に一周200メートルのアンツーカートラック、中学校校舎、森田金之助記念館(大講堂兼体育館)、運動場スタンド、図書館棟などが次々と建てられた。

 1968(昭和43)年には短期大学が開学し、大阪女学院は戦後の復興期を終えて次のステージに進むことができた。