• 「ウヰルミナ女学校」 〈1884(明治17)年開校〉
     米国カンバーランド長老教会によって創設された学校で、「ウヰルミナ」という校名は、日本での学校設立のために多額の献金を捧げたキリスト教信徒にちなんだものである。テキサス州オースチンの農夫であったWilliam Saundersは、亡き妻Erminaの記念に、1,000ドルの献金を寄せた(川口居留地の校地約370坪の購入価格が2,200ドルの時代)。この最初の寄付者である夫妻の名をとり、WilliamのWilと Erminaのminaを組合わせてWilmina(ウヰルミナ)女学校と名付けられた。漢字では「維耳美那」と表記された。
     1904(明治37)年、米国北長老教会の浪華女学校(旧大阪一致女学校)と合併した際、校名はウヰルミナ女学校が継承された。米国北長老教会の学校は全国に数校あったが、カンバーランド長老教会の学校はウヰルミナだけであったことと、「ウヰルミナ」の命名の由来が尊重されたことなどによると考えられる。
     
  • 「大阪一致女学校」 〈1886(明治19)年開校〉
     この学校を創設した米国北長老教会のミッション(宣教局)は、日本基督一致教会と称する教派を組織し、大阪に創設した各教会も一致教会と称していた。女学校の名もこれに合わせたもので、女学校設立を望んでいた信徒たちの意見を取り入れて命名された。

  • 「浪華(なにわ)女学校」 〈1892(明治25)年 大阪一致女学校から改名〉
     1890(明治23)年に、日本基督一致教会が日本にあった長老派系の4教会と合同して「日本基督教会」となった。大阪の各教会がその浪花中会に属していたことにより、「浪華女学校」としたものと思われる。

  • 「文部省指定ウヰルミナ女学校」  〈1912(明治45)年〉
    「文部省指定ウヰルミナ女学校高等女学部」 〈1927(昭和2)年 〉
      「文部省指定」や「高等女学部」という呼称の背景には、国の宗教教育統制と、その試練の中で教育理念を守ろうとした学校の歩みがある。詳しくは「教育理念を守る」参照

    〈1937(昭和12)年頃から「ウヰルミナ」ではなく「ウイルミナ」の表記が使われるようになった〉
     
  • 「大阪女学院」 〈1940(昭和15)年〉
     世は太平洋戦争前夜で、反外国、反キリスト教の嵐が吹き荒れた社会情勢下にあった。英語や外来語は「敵性語」として排斥される状況の中、校名に英語が使われている全国のキリスト教学校は、次々に校名を変更していった。
     当時の森田金之助校長は、当局から変更を強制されたわけではなかったが、時局を考えた上で理事会に諮り、職員の意見をふまえて、主体的に校名を「大阪女学院」と改めた。ウイルミナ女学校高等女学部は大阪女学院高等女学部となった。
     当時の生徒たちは、「大阪にキリストの光を輝かす中心となる女性を送り出す学校」という使命感からの決定である、と教えられた。校名変更の記念式典が盛大に執り行われ、記念の「新校名発表の歌」が発表された。「うち集ふ 愛の友垣」という歌詞に始まり、神の豊かな光を常に仰ぎ見て祈りのある心が満ちあふれ、学ぶ者の個性が豊かに咲き競う学校「大阪女学院」という新しい校名を高らかに掲げて誇りを持って進んでいこう、とうたわれている。時代の困難を乗り越えて、神を信じ、学院の伝統を高く掲げて進もうとする意気込みが溢れている。その精神は、後の時代にもしっかりと受け継がれた。