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歴史と人物

大阪女学院の歴史・人物についてご紹介いたします。

ヘール宣教師兄弟

ヘール宣教師兄弟ウヰルミナ女学校を設立しました。
協力して、ウヰルミナ女学校を設立したA.D.ヘール宣教師と弟のJ.B.ヘール宣教師は、日本伝道の初期からキリスト教学校を設立することが必要だと考えた。
明治政府は教育の普及に熱心で、官立の学校を次々に設立し、教師の養成のため師範学校を各地に設置していた。
しかし、師範学校や高等教育機関では、欧米の科学・技術はそのすべてを教えるが、思想や宗教など政府に都合の悪いことは教えない、いわゆる和魂洋才の方針で教育事業を進めていた。
例えば、天地万物の創造者であり、支配者である目には見えない神のこと、一人ひとりの人格の尊厳、人間は平等であること、平和の大切さなどを伝えるキリスト教の教えは、排除した。
ウヰルミナ女学校建学の目的は、「天地万物の創造者・支配者である唯一の神を知り、一人ひとりが、かけがえのない人格であることを知って、平和を愛し、明るく前向きに社会で活躍する人間を育成する」という、官立の学校では行えない教育をすることであった。

A.E.ガーヴィン校長

A.E.ガーウィン校長大阪一致女学校の創設者のガーヴィン校長は、19世紀のアメリカの女性の社会進出の気運のなかで設立されたウェスタン女子大学の出身で、1888年に新築 した大阪一致女学校の礎石に「主を畏れることは知恵の初め」(詩編111)と刻み、信仰的な家庭婦人の育成と、誰も行きたがらないが人々に必要な仕事を、 喜んで行う社会婦人の養成を志し、推理力や実用的な知的能カ、健康な身体の発達をめざす学校づくりを行った。

A.E.モルガン校長

A.E.モルガン校長1893年より通算18年間、ウヰルミナ女学校の校長を務めたモルガンは、ウヰルミナ女学校の目的を次のように記している。
「ミッションスクールの目的は、教育だけでなく、キリスト教教育です。
これら二つの言葉が結ばれて、一つの理念になったものです。このような成果は、官立学校では得られません。
・・・・・私たちの学校には、役に立つ訓練を、キリスト教の雰囲気と環境の中で与えることのできる教師がいます。
すべてにおいて、私たちが目指すことは、なんらかの方法で働く義務を悟り、正直に仕事をすることを誇りとし、日常生活の雑事を越えて、物事を見抜く力のある人間を形成することです」

森田金之助校長

森田金之助校長35年間、ウヰルミナ女学校(現大阪女学院)校長であった森田先生は、個性豊かな教育者であった。
1877年3月14日、東京で生まれ、1900年明治学院神学部を卒業し牧師となった。 1908年渡米、ニューヨークのオバーン神学校に入学、1911年に卒業して、大阪神学院教授兼教頭に就任した。
1925年より招かれてウヰルミナ女学校日本人初の校長となり、以後、天に召されるまでの35年間を女子教育のために献げた気骨のある自由人で、強い印象 を人々に与えた先生である。軍国主義や戦争が嫌いで、軍人のような丸刈りは拒否。服装も軍人調の国民服を着ず、敗戦間近まで紺の背広を着用していた。ス ポーツでも勝ち負けを争うのを好まないようであった。
戦後は、戦災で全焼した校舎の復興に、整地作業や材木運びなどの労働に連日、汗を流した。「キリストの十字架の救いを生徒達が本当にわかってほしい」と祈り続けて、キリストの学校での歩みをひたすらに歩まれた先生であった。

西村次郎先生

西村次郎先生1900年3月4日 大阪市に生まれる。大阪市立高商を卒業後、1922年山口銀行(現三菱東京UFJ銀行) に就職したが、1927年に伝道者になる事を決意し、退職。当時、ウヰルミナ女学校(現大阪女学院)校長の森田金之助先生に、キリスト教学校での教育を勧められ、同年2月ウヰルミナ女学校に就職。
1937年には、教頭・理事となり森田先生を補佐、特に、戦後は、戦災で全焼した学校の復興に全力を尽くし、校地を拡張、チャペルや校舎を建築し、その指導力を十分に発揮した。
身だしなみはいつも抜群、おしゃれと言ってもいい程であったが、その態度はざっくばらんで、スケールの大きな器量人であった。

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