教育理念を守る

  • 「訓令12号」……試練の時代
     ウヰルミナ女学校開校後5年が経過した1889(明治22)年頃から、国粋主義、反外国、反キリスト教の風潮が高まり、キリスト教学校は厳しい試練にさらされた。1899(明治32)年には「訓令12号」の発令によって、「特定の宗教による教育」を行う学校は法令の規定にある学校として認められず、上級学校への進学資格や、男子校では徴兵猶予の資格を与えられないなどの規制が加えられた。キリスト教学校としての根幹にかかわる試練であった。ウヰルミナ女学校や浪華女学校(旧大阪一致女学校)も、キリスト教教育を続ける限り「高等女学校」と認められず、各種学校に位置付けられることになった。それまで順調に発展してきた両校とも入学者が激減した。しかし、各種学校の地位に甘んじても、両校ともキリスト教教育を堅持する方針を貫き、決意を新たに学校運営に取り組んだ。

 

  • 「文部省指定校」
     時代の逆風の中で、建学の志を曲げず歩みを続けたウヰルミナ女学校と浪華女学校は、1904(明治37)年に合併した。校名をウヰルミナ女学校として再出発し、充実した学習環境と教師陣の努力とによって、教育実績も向上していった。1912(明治45)年には「文部省指定校」に認定され、失っていた上級学校への進学資格も回復した。これは同年の文部省告示91号によるもので、特定の宗教による教育を行う学校でも、その教育内容が中学校(当時の学制では中学校は男子校)・高等女学校と同等であると認められる学校は「文部省指定校」と認定されたのである。




  •  
  •  
  • 「高等女学部」としての意識
     その後1927(昭和2)年にウヰルミナ女学校は、本科を「文部省指定ウヰルミナ女学校高等女学部」と改称した。訓令12号の発令以来「高等女学校」と称することはできなくなったが、指定校の認定も受け、発展してきた学校として、教育内容や水準の高さを示すために「高等女学部」という名称に改めたのであろう。