校地の変遷

  • 川口外国人居留地 
    1884(明治17)年 ウヰルミナ女学校開校当時の校地
    川口外国人居留地19番Aとその隣接地22番(合計約370坪)で開校した。木津川を挟んで当時の大阪府庁に面していた。

    1886(明治19)年 大阪一致女学校開校当時の校地
    川口外国人居留地16番(約260坪)で開校。

    1887(明治20)年、大阪一致女学校が、西区土佐堀3丁目の旅館を借り、改装して移転。
  • 玉造(現在の校地)
    1888(明治21)年、大阪一致女学校が、西成郡清堀村に校地(約2,400坪)を購入し、洋風の校舎を新築して移転した。この時が、現在の玉造での大阪女学院の歴史の始まりである(後述)。
    大阪の「市街地の東のはずれ」で「まだ日本人にとって価値の高い場所ではなかったので、安い値段で買えた」と、A.E.ガーヴィン校長は記している。柿や桃、お茶の木が植えられたのどかな田園地帯であったという。当時の生徒募集新聞広告には、大阪市内第一等の高台(上町台地のこと)にあるので、閑静で眺望が開け、空気は新鮮で、よい水も出るので、学生の健康と教育に最適である、と書かれている。

    1904(明治37)年、大阪一致女学校から改名した浪華女学校と、ウヰルミナ女学校が合併し、校地・校舎は浪華女学校のものを用いることになった。ウヰルミナ女学校は川口居留地から移転した。

    1928(昭和3)年、校地西(仁右衛門町)側の道路に通じるように土地を購入、道路に面して通用門を設置。

    1945(昭和20)年6月、アメリカ軍B29爆撃機の空襲で、校舎のほとんどを焼失したが、この地で学校を復興することになった。「戦後の復興物語」

    1951(昭和26)年
    戦後の復興の一環として校地拡張を進めてきたが、この年には、元の4倍ほど(1万坪あまり)に拡張することができた。
    広くなった校地で、北校舎(現高校校舎)とチャペル兼講堂が建てられた。その基礎の一部には、瓦礫の中から集められ応急の机や椅子等に使われたレンガが敷きつめられた。チャペルは創設者ヘール宣教師一家を記念してヘールチャペルと名付けられた。


    地名は、西成郡清堀村から、東区清堀、仁右衛門町、東雲町などを経て、現在は大阪市中央区玉造2丁目26番地54号となっている。