草創期を支えた人々
「太平洋を越えてきたれる良き師の祈り」。校歌の歌詞にあるように、明治時代初期に来日したキリスト教宣教師たちの存在が大阪女学院のルーツにあります。主な人々をご紹介します。

ヘール宣教師兄弟
ウヰルミナ女学校創設者、兄A.D.ヘールと弟J.B.ヘールは、米国カンバーランド長老教会の宣教師として1877〜1878年に相次いで来日した。
兄弟は伝道を始めてまもなく、キリスト教学校の設立が必要だと考えた。明治政府は官立学校を各地に設立していたが「女子教育は比較的見過ごしにされていた」とJ.B.ヘールは指摘している。
さらに「独立した単位としての人格という概念は、日本人が今日まで教えられてきたあらゆる哲学にない」。「人間を一つの単位と考える観念、自分の行動については自分に責任があるのだという観念は、日本人に理解し難いものだった」と記した。
こうした認識をもとに新しい教育をめざし、「天地万物の創造者である唯一の神を知り、一人ひとりがかけがえのない人格であることを知って、平和を愛し、社会に貢献する人間を育成する」ことをねらいとして、女子のための学校がつくられた。A.D.ヘールが教育事業の監督に任命され、J.B.ヘールは女性宣教師とともに学校案の作成を担った。

A.E.モルガン
草創期の多くの女性宣教師の一人で、1893年に20代半ばの若さでウヰルミナ女学校4代目校長に就任し、通算18年間校長を務めた。反外国、反キリスト教の社会風潮や、訓令12号によるキリスト教教育の危機に直面した厳しい時代にも、宗教教育を堅持して学校運営に尽力した。
彼女が学校の目標として記した言葉は、今も大阪女学院の教育理念を表すものとして大切にされている。
「すべてにおいて、私たちがめざすことは、なんらかの方法で働く義務を悟り、正直に仕事をすることを誇りとし、日常生活の雑事を越えて、物事を見抜く力のある人間を形成することです」。

A.E.ガーヴィン
大阪女学院のもう一つのルーツ「大阪一致女学校」の創設者で初代校長。19世紀アメリカ、女性の社会進出の気運のなかで設立されていった女性の高等教育機関の一つ「ウェスタン女子セミナリー」の出身で、先に来日していた米国北長老教会のT.T.アレキサンダー宣教師の要請で女学校設立のために1882年に日本に派遣され、1886年に川口居留地の居宅で大阪一致女学校を開校した。伝道活動や健康上の理由などで退いた期間を除き、開校時から1904年のウヰルミナ女学校との合併時まで長く校長を務めた。
沿革








英語科として107人の第1期生を迎えてスタートした。
Integrated Units(統合課程)や独自開発の英語教材によって、英語4技能を統合し世界の課題を英語で学ぶカリキュラムが整った。
(※)当初の科目名は「朝鮮語」
(※)中国語併修は大学のみ